お盆from京都to名古屋

 【このブログは8月14日の午後23時から15日にまたがるくらいの時刻に、8月12日のキモチになって書いています。だから表現は8月12日のもので、ここに出てくる「昨日」とは8月11日のことです】

今日は、見たかった村上隆の展覧会をセイコさんと一緒に行って、その後名古屋に戻った。
半年近い開催期間中、幾度か京都に帰っているものの、この美術館に足を運ぶタイミングはなかった。今日会えればと予定していた者からの連絡が遅かったので、こちらから断れたことから時間ができた。

我が家はご存じの通り1泊2日が限度。
昨日は早朝に車で名古屋を出て、午前中に京都・自宅着。
午前中着を狙うのは【お盆】期間なので、できるだけ渋滞を避けたいため。
その理由は、午後から「(お盆の)棚経」がある。これに間に合わないと「チョウナン」を理由にオカン・イクヨが”なじる”からだ(笑)。

それにしても「お盆」だからと集まらなくなった。

去年の法要を「これが最後」として全員を集め、”以降、強要しません”「チョウナン」宣言を明確にしたことに起因していると思う。
その宣言は、祖父・祖母・叔母そしてシゲルと、回忌が重なったこと、マユを含む子供達も大きくなった・・・どころか、自立する年齢になっていることからだ。

誰も集まらない、だが、オカン・イクヨ独り+住職お独りの棚経は「如何なものか?」と思い、「チョウナン」サトルは「ジジョ」セイコさんはお経を賑わせるために行っている。

折角、帰るなら・・・と先日の約束の実行。

そのシゲ夫婦を呼んだ。先日、名古屋に来てくれたのにセイコさんが会えなかったから。
いつもなら我が家に”常駐?”のヒラセさんは息子・孫・ひ孫との食事会だったので欠席。

昨日の夕食はオカン・イクヨ、俺、セイコさん、シゲ、シゲ嫁・アツコの5名。
途中で気付いたのだが、この5名で、しかも我が実家でメシを喰うことは初めてだったよう・・・

~ここからは俺自身が忘れないためにも書く~

・・・俺とシゲは、高校の卒業式で「二人で答辞」を読んだ。→これは事実。
何故、「二人で読むことになったか?」が酒の席での話題となった。

通常「答辞」の形式としては「一人で読む」。序でにあるとすれば「優秀な者(が読む)」ような・・・しかし、俺の高校は一切、順位などを発表しないところであったので、学業で優秀だったかどうかは測りようはない。

アツコと俺の違わない記憶は「シゲと一緒でないとやりません!」の一言。

この言葉から推測するに、誰かから「答辞を読みませんか?」と言われ、それに対し、俺が条件を付けているとしか思えない。そんな、偉そうな振る舞いと許してくれる寛大さを持ち合わせるのは、担任であった「クワバラヒロシ」しか思い当たらない!
(※余計な「同級生・タナベ」の逸話も思い出したのですが・・・・)

この「クワバラヒロシ」リンクは読んでみてね・・・(同じリンクだけど)俺の思っている「クワバラチャン」と違わないので・・・

ホント、更に余計なことだが、「クワバラヒロシ」の初の担任のクラスに「オカン・イクヨ」がいて、教師生活最後の赴任の学校が俺の高校、しかも「オカン・イクヨ」と「クワバラヒロシ」が再会したのは、高一当時の俺の事故で、呼び出された学校の廊下だったらしいし、本当の教師生活最後、三年生の担任のクラスに俺がいた。

昨日聞いた初めての話はここから。

当時、シゲは留年覚悟=卒業・不透明だったらしい。
追試や補習を無視して(当時は)ディズニーランド(といった)への旅行を優先したそうだ。その旅行から帰ってくると「卒業認定」されていて、本人曰く「?卒業できるの?」とも思ったらしい。

答辞を読むために卒業させたなんてことは馬鹿馬鹿しいけど、あったとしても悪くはない。

俺はスーツ。シゲは袴・・・「?何?この答辞?」と思われるほど馬鹿馬鹿しい内容。
高校生になって「思い出」だけを羅列するなよ!!!って内容。あの練習した「奉書」はどこにいったのかな?

卒業式の後、俺・シゲ含む仲の良い奴らで、日本酒の小さめの菰樽を担いで職員室に行った。俺らが担いでいると、廊下は「妙な興奮」で後押ししてくれた。

当時の(嫌いだった)ナガムネ校長に、職員室にて(わざわざ)菰樽を渡したのに、
「君たちはぁ~」と言われたが、その時も「クワバラチャン」が「まぁまぁ、卒業生の気持ちじゃないですか」と校長を差し置いて受け取ってくださった。

良かったじゃん!二人共、同時に卒業できて(笑笑)

サトル







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