ご近所付き合いの考え方

赤木名での日暮れ


なかなか面白い話題だと思い、餌に食いつきました。
都会の近所付き合い、都会だけど古い街のご近所付き合い、田舎のご近所付き合い。
色々と場所が変われば形態も変わるんだろう、と想像できますねー。
あと、それぞれの人の考え方も違うってのもあるから、単純に判断は難しい所です。

横須賀や名古屋に住んでいた頃、家の敷地が接している方々、お向かいさんとは何だかんだお話もするし、今みたいなお裾分けみたいな物のやり取りも発生していた感じ。
でも、このご近所付き合いがそれ以上膨らむことなく、その向こう三軒両隣未満に収まっていた。
つまり、町内会の班の方々を、どっかの店で見かけても、お互い気付かないレベル。

そして、今、佐仁に来ておおよそ一年経とうとしてるけど、今までの感じからすると「ご近所付き合い」という枠を超えている関係性な感じ。

という事で、せっかく面白い「お題」を(勝手に)もらったので考えてみた。

自分視点だと、特に人付き合いの仕方について、何も変えていない、つもり。
特に近所づきあいはここまで、という線を引いたり、積極的に何かする・しない、という意味で。

内地にいる時、時間のほとんどを会社で過ごしていて、家は休日を過ごすところ。
休日は住んでいる所の近辺(町内会レベル)で何かする事はほとんど無く、何かする時はどっかに出掛けていた。

翻って今の生活は、仕事は相変わらず週休2日でしているけど、通勤時間20分の近さ。勤務時間も残業が無いから格段に短い。
仕事以外の時間だったり休日は、大体佐仁で何かしている。(時折、名柄もあるけど)
ここまで佐仁にいる時間が長ければ、佐仁での関係性も広がっていくでしょう。

自分の性格的に、自ら進んで友好関係を広げていくタイプでは無いから、感覚的には自然と関係性が広く、深くなっている。
人の名前も、繋がりも会話の中で何度も出てくれば、自然に覚えていくもんです。

こんな事を考えていて、いきなり結論っぽい事を書くと、
近所付き合いは、その人の人生で「楽」、「楽しい」、「必要」というのが当てはまると発生するのかな、と。
都会であれば、特に「必要」じゃないけど、佐仁のような辺鄙なところでは重要なライフラインの一つ、と言えなくもない。
”同じ”名古屋に住んでいても、全く近所付き合いしていない人(そちらの甥)、ちょっとしていた人(ハッシー)、がっつりしている人(サトル兄ちゃん)、では、立場(子供の有り無し、年齢、仕事をしているか否か)、考え方、感じ方の違いがあって、佐仁のような「必要性」はないけど、あると良い、なくても良い、で行動が違っている、みたいに思いました。

つまり、昨日のブログにあった「住んでいる」環境においての人づきあいが自然と出来るもの 
という部分ですね、結局。

我々の場合は特に意識せず、ご近所づきあいが自然に発生して発展していき、それが佐仁での暮らしを楽にしてくれているし、楽しい時間を過ごさせてもらえてる、という事かな。
そして、我々が佐仁で暮らすのにあたり、ご近所さんの存在は大きく、必要不可欠である事が、改めて確認できた次第です。

良いフリ、ありがとう!!


そんな流れで、先日の桶柑ジュースとキャベツのお礼したら、追加の野菜をくれた。
大根、キャベツ、ブロッコリー、カリフラワー

ご近所さまに感謝!

ハッシー 

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